一週間後、私は退職届を部長へ出した。
部長はとても驚愕して、何度も私に辞める理由を訊ねてきた。
それでも何も答える気はしなかった。
何を言ったって仕方がないだろうから。
私が退職することは、郷倉によって周囲に広まり有名になっていた。
いなくなるから少しは働きやすくなるんじゃないの?
私も嫌な空気を吸わなくて済むから、すごく嬉しい。
真子に辞めることを伝えたら寂しがっていたけど、もう二度と会えないという事じゃないから大丈夫となだめた。
永遠の別れじゃないから、いつだって会いたい時には会える。
「小鳥遊に辞められると弱るんだよな。
一番仕事が早いから、辞められると困る」
「そんなことを言われましても、私には関係ないことですので。
他の方がまともに仕事をしていないのが原因では?」
「・・・そうかもしれんな」
「とにかく私はあと2週間ほどで辞めさせていただきます」
正直、本日付で辞めてしまいたかったが、さすがにまずいと思った。
それで2週間にしたけど長いよね、2週間って。
普通だったらあっという間に感じるんだけど、嫌なことだから長く感じるんだよね。
さっさと過ぎ去ってくれないかな。
自席へ戻って私は自分のやるべき仕事をてきぱきと始めた。
他はダラダラと仕事をしている。
相変わらずオンオフが出来ない連中だな・・・これが大手企業の実態なのか?
まぁ、恐らくこの会社だけだと思うんだけど。
この会社もいつまで保つのか分からないな。
「小鳥遊さん、良ければ送別会やりませんか?」
「それいいね、やりましょうよ!」
女子が送別会の話で盛り上がっている。
っていうかさ、それただ酒が飲みたいだけでしょ?
そもそも親しいわけでもないんだからさ、送別会なんかする必要ないって。
最後くらい早く帰りたい。
なんだかんだ定時に帰ることが出来ないことが多かったから、さすがに早く帰ってゆっくり自分の時間を大切にしたい。
時間とお金は有意義に使うものだと思う。
「じゃあ、私抜きでどうぞ。
最後の日くらい早く帰って自分の時間を大切にしたいんで」
「それじゃあ、意味ないじゃない!」
「だったらただの飲み会にすればいいのでは。
こんな時だけ親しい顔するのやめてくれます?」
私がそう言うと、周囲が文句を言っている。
何を言ったって文句を言われるなら、本音を言った方がまだいい。
こんな時だけ友達面とかウザいんだよ。
飲みに行きたいなら勝手に行ってくれって感じ。
私は自分の仕事をこなし、休憩しようと思い屋上へと向かった。
外はいい空気で本当に癒された。
空気ってこんな美味しいものだったんだ、知らなかった。
タバコを取り出して火をつけ吸い始める。
こうしてタバコを吸い始めたのは、父親から虐待されて壊れてしまってからだ。
最初はうまく吸えなかったけれど、今では普通に吸えるしおいしく思える。
ヘビースモーカーと言うわけではないけれど、結構なペースで吸ってしまっているかもしれない。
体に悪いとは分かっていてもやっぱり簡単にはやめられないんだよね。
私はスマホを取り出して、求人情報をじーっと眺めて面白そうな仕事が無いか探してみた。
そもそもちゃんとした仕事の求人しか載っていないから、見ても意味ないか。
私がやりたいのはギャンブルに関する仕事だから、こんな大々的には募集しないはず。
そこで検索欄に“カジノ バイト”と入力して検索してみた。
すると、少ないがいくつかバイト募集の求人が出てきて私は一件ずつ見ていった。
カジノディーラーの募集が多く、あとはダンサーやバニーガールの募集。
カジノディーラーって以前やったことがあるけど、すごくやりがいのあるものだった。
まぁ、お店の雰囲気や場の空気が悪くなった時にスマートな対応を求められるから大変だけど、こういった場所は必ず働く前に研修や指導を受けるはずだから特に問題はないだろう。
「さて、メール応募でもするか」
必要な情報をフォーマットに入力していき、誤字脱字が無いか確認する。
こういう点もしっかりチェックしておかないといけない。
面接してもらえるようだったら履歴書の作成をしなければいけないから、証明写真を準備する必要がある。
いつも思うんだけど証明写真って高いんだよね。
今は通常と肌美人と2パターンから選択できるようになっているけど、肌美人なんて800円とか900円だからもう千円じゃんって思う。
それなのに使える写真はたったの6枚なんて、何だかバカバカしく感じるのは私だけなのだろうか?
一か所だけだと不安だから何か所かメール応募しておいた。
後は返信が来ることを待つだけ。
オフィスへ戻ると、慌ただしく皆が仕事をしていた。
珍しい・・・こんなテキパキ動いているなんて。
「小鳥遊、資料作成手伝ってくれないか?
これから取引先が来るんだが、資料が間に合っていなくて」
「どういう事でしょうか」
「郷倉が資料完成日を明日だと勘違いして、まだ途中なんだよ!
人手が足りなくてまだできてないんだ、あと3時間しかないのに!」
郷倉が勘違いして資料が間に合わない?
それって郷倉のせいで皆には関係のない事なんじゃないの。
珍しくテキパキ仕事をしていると思いきや、それが原因だったとはね。
人手が足りないと言っている割には、結構な人数が携わっている。
これ、ちゃんと分担できているんだろうか。
郷倉を見るとのんびり仕事を進めている。
自分がしくじったせいで周囲がこんなにもてきぱきしていると言うのに、何なの。
その姿を見て怒りを通り越して呆れた。
「それって郷倉の責任ですよね。
大体それは営業部署が穴埋めすることで、部署が違う私には関係ありません。
それに3時間もあるなら十分間に合うじゃないですか」
「お前仕事早いだろ?
だからお前にしか頼めないんだよ!」
「郷倉の尻拭いなんか御免です。
申し訳ありませんが、他を当たっていただけませんか」
「いいんですよ、その人に頼まなくても。
オレがミスしたことですから」
郷倉が明らかに猫を被っている。
営業部の連中が仕事を引き受けなかった私の文句を言っている。
だけど、これは私のせいじゃないから。
郷倉が勝手に勘違いをして起きたことであって、部署の違う私に仕事を頼むのは筋違い。
それに本人がミスを認めているんだから、そっちでやってくれればいい。
郷倉が余裕の表情で私を見下している。
さて、いつまでそんな表情をしていられるのかな?
今日取引する相手は大企業だから、何か不備があればきっと契約はしてもらえない。
もうすぐこの会社を辞める私にとって、その契約がうまくいこうが失敗しようがどうでもいいけれど。
私の予想ではきっと失敗すると思う。
資料が完成したとしても、話し方や提供の仕方を失敗するのではないかと思うから。
そんなことを思いながら、私は自分の仕事を進め始めた。
電話対応も今ではすっかり板について、クレーム処理まで出来るようになった。
クレーム対応する者の中には、クレームにより体調を崩してしまう者もいる。
だけど、私は過ごしてきた環境が環境だったから大したことない。
「ふぅ・・・疲れた」
私は電話対応を終えて、自席で缶コーヒーを飲んでいた。
甘いものが苦手な私はいつもブラックコーヒーしか飲まない。
女子は甘いものが好きだけど、私はどちらかといえば苦手であまり食べない。
ブラックコーヒーを飲むし、タバコも吸うしギャンブルもするからオジサンくさいと真子には言われている。
話し方もどちらかといえば男っぽいし、いい加減なところもある。
私が女子らしくしないのは周囲から舐められたくないという思いがあるから。
いつだって女は男よりも下に見られるから、少しでもそう見られないようにしようと思った。
数時間後、契約会議を終えた郷倉達が戻ってきた。
その表情はどこか雲行きの怪しいもので、契約までこぎつけなかったことが分かった。
喫煙室へと向かっていく郷倉を見て私はため息をついた。
あいつが普通のいい奴だったら協力したいと思えるのに。
缶コーヒーを飲み終えて、私は給湯室へ行き缶を水で濯いでごみ箱へと捨てた。
濯ぐ必要はないんだけど、やっぱり濯いだ方がいいと思っていつも洗ってしまう。
「どうせざまあみろとか思ってるんだろ?」
突然声が聞こえてきて、視線を向けると郷倉が立っていた。
どうしてこう毎回毎回絡んでくるんだろう・・・めんどうくさい。
ざまあみろとは思っていない、やっぱりなって思っただけ。
予想通りだからそれ以上の事は思っていない。
話すのが面倒くさくなって、私はそのまま給湯室から去って行った。
一緒に居るだけでもいやなのに、話すのなんてもっと嫌だ。
でも、このままでは営業部署の連中が可愛そうだ。
私ももう辞めることだし、何か役に立つことを教えてあげてもいいかもしれない。
「あのさ、余計なお世話だと思うから別に真に受けなくていいけど。
もう少し周囲との連携を取りながら仕事した方がいいんじゃない。
ネコを被り続けていると、いつか必ずボロが出て煙たがられるよ」
私も昔は嫌われたくなくて、本当に自分を隠して色々振る舞ったりしていた。
でも、それは逆効果で本当の自分を知られた時、独りぼっちにされたんだ。
子供の私にとって煙たがられることは本当に寂しくて、深く傷ついた。
たくさんのことが嫌になって壊れてしまい、現在に至っている。
郷倉がどうなろうとも知ったことじゃないけど、一応忠告だけはしておこうと思った。
郷倉は私よりも感情的だから、他人から嫌われたらきっとダメになるタイプ。
嫌われたって別にいい、分かってくれている人はちゃんとわかってくれているから。